Bruit de la mer 海潮音/Rei

……海は胎動する……

波間を漂っている、俺を救ったのは、あの人だった。

僅か7歳で飛び込んだ、東シベリアでの厳しい修行。冬中雪に閉ざされ、吹雪く雪原は、さながら荒れ狂う海のようだった。強くなりたい。轟く高波を裂き、潮を割って進んでいく、クラーケンのようになりたい。海の怪物と恐れられながら、悪人しか襲わなかったという、クラーケンのように、強くありたい。凍てつく寒さに小さな体を震わせながら、一心にそう願っていた。そんな俺が師と仰いだ人は、常に冷徹であれ、と云った。師は、聖闘士の中でも頂点に輝く、黄金聖衣を纏った選ばれし者。青銅聖闘士を目指して、訓練に励む俺は、彼を目標に日夜訓練に励んでいた。


「アイザック、今日から君と一緒に訓練をする新しい弟子の氷河だ」
師匠に弟子入りしてから一年が経った頃、弟弟子が出来た。泣き虫で、ことあるごとにマーマ、マーマと泣く、同い齢の少年。父親は日本人だと聞いたが、綺麗な金髪で、青い瞳をしていた。
「アイザック……アイザック!」
氷の大地に溶ける淡い金髪と、氷の下の海のような蒼い瞳。寒さに引き攣る頬で大きく息を吸い込んで俺の名を呼ぶ。氷河はまるで本当の弟のように、俺の後ろを追いかけてくる。永久凍土に眠る白鳥座の聖衣は、一体しかない。同じ聖闘士を目指す彼は俺とはライバル同士でもあるのに、手放しに俺に頼り、甘えた。


「お前、そんな甘ったれでどうする!」
修行の合間に泣き言を言う氷河に、喝を入れる。マーマ、マーマなんて、もう、十歳を超えても云い続けてどうする。と。すると氷河は、
「アイザック……お前には、分からない」
と云って、長い睫毛を伏せた。そうだな。俺は、親を知らない。

「莫迦…」
或る日、その不肖の弟弟子は、本当の不祥事を仕出かした。永久凍土を破って母の亡骸を抱く為に、聖闘士になりたい、などと寝言のようなことを云っていたが、遂に実行したのだ。彼が、俺と先生の目を盗んで氷の海に入ったらしいと気がつき、すぐに弟弟子を追って、海に潜った。
「氷河…!」
沈んだ船の網に引っかかったまま意識を失っている、氷河を見つけた。水中では、声も出せない。溺れた氷河を抱え、つめたい水のなか海面を目指し、泳いでいく。彼を抱きとめるときに、左眼を疵付けたが、不思議と痛くはなかった。氷の下の海は光も届かない。ただ、氷河の穿った穴からだけ一条の光が射し込んでいる。その光に向かい、力を振り絞った。光を遮るように、左眼から血潮が吹き出す。
(駄目だ…)
潮流に呑まれて、意識が遠のいていく。心臓が、凍りそうだった。そのとき、光を遮って、水面に近いところに、大きな影が揺らめいた。
(クラー……ケン?)

 ***

「あなたは、誰?」
気が付いたら氷の海を悠々と泳ぐ、その伝説の生物の背中にいた。見知らぬ男の腕に抱かれて。クラーケンの背中には、見慣れない男が乗っていた。潮流に長い白金の髪を靡かせ、片頬に微笑みを浮かべて、俺を見ていた。
「もう大丈夫だ。眠れ」
そう云って、彼の大きな掌が、未だ血の止まらない俺の左眼をそっと覆った。
(大丈夫、なんだ……?)
自分の左眼はもう見えないのだと、彼の手がなくても分かった。視界に入るのは、冥い視野の外から海に溶ける血潮。彼の手に覆われているはずの左眼は彼の手を映さない。
「血を、止めてやる」
彼はそう云って、血を吹き出す左眼に、くちびるを押し当てた。不思議と痛くはない。
「おやすみ……」
くちびるを離す瞬間の彼と目が合い、微笑を投げられる。懐かしい、黄金色の小宇宙が流れ込んできた。