この手をもっと汚して/ガチ紳士


ギリシャの陽光を弾いてきらめく波の、そのうんとうんと奥の底。
ゆったりと海底を這う深層海流を二手に分けるようにして、その場所はあった。
外から見れば巨大な水泡が浮かび上がることなく止まっているように見える透明なドームの中は、深い海底にあるにも関わらず酸素に満ち、陽の光も降り注ぐ不思議な場所である。
大海を支えるように大きな柱と、付き従うようにそれを囲む七本の柱は荘厳で、見上げる者の畏怖を呼び起こす。
そして、中央にそびえるメイン・ブレドウィナの麓にある神殿こそが、海洋神ポセイドンを奉る大神殿であった。
 
その、ポセイドン神殿の一角にある鱗衣の間。
アイザックはそこでひとり、クラーケンの鱗衣を見上げていた。
立派な彫刻のほどこされた台座の上へ横たわる黄金のオブジェは、なにものにも縛られず悠々と泳ぐ姿を模している。進むことも、さりとて戻ることもままならない今の自分の姿とは大違いだ、とアイザックはひっそりとため息をついた。
アイザックがこの海底神殿へ落ちてきてから、すでに半年以上の時が過ぎている。
半年以上も、だ。生死の境にいたのを救われてから、本当に色々なことがあった。
海皇ポセイドンの名の元に行われる崇高な計画、そして自分にもその遂行を担う海将軍の素質があると告げられたのだ。
それだけでも許容量をはるかに越えた驚きであるというのに、さらに追い打ちをかけたのは、地上で行われた銀河戦争という名の浅ましい私闘だった。
女神のために奮うべき神聖な闘技をただの見せ物にした上、歴史から秘匿され続けた聖闘士の存在を全世界に知らしめたのだ。
その本当の目的は、偽教皇に乗っ取られた聖域への挑発であるらしい。世界を巻きこみ聖域に喧嘩を売った城戸沙織という少女が本物のアテナであろうと、今聖域の奥で玉座に座る教皇が偽物であろうと、腹に一物かかえた者たちの思惑などアイザックには興味もなかった。
もはや聖域に正義はない。
海皇の意志の通り、全ての悪をさっぱり洗い流し、世界を一からやり直すべきだ。
かつてはアテナの聖闘士として修行したアイザックではあるが、海皇の統べる世界に己の理想をみてからは、自らの意志でこの海底へ留まっている。
……つもりではある。
それもどうなんだか、とアイザックはまたため息をついた。
アイザックは孤児である。寒さの一番厳しいころに孤児院の前に捨てられていたのだと聞いている。その数年後、聖域よりの使者が素質を見込んでアイザックを迎えにきた。
あの時も、自分の意志で聖闘士になる道を選んだつもりだったが、今はもうそれすらどうか怪しい。聖闘士へも海将軍へも、なると決めたのは自分自身であっても、道は最初からひとつしか示されていなかった。
捨てられて、流されて、また捨てられて、そしてまた、ここでも流されるのか。そんな生き方でいいのだろうか。
答えはでない。それゆえ、半年以上たった今でも、アイザックは正式な海将軍として鱗衣を授かっていないのだった。
初めてこの広間へ連れてこられたときには3体あった鱗衣も、半年の間にセイレーンの海将軍が見つかり、いまでは2体きりだ。依り代の目覚めを待つ海皇ポセイドンの鱗衣と、ちゅうぶらりんのままのクラーケンの鱗衣。
アイザックは手を伸ばし、己の鱗衣に触れた。何度か請われて、そして自身でも確かめるようにまとったことがある。ひやりと冷たく、けれど包み込むようなおおらかさを感じる度、この鱗衣は己のものだと理屈ではなく思うのだ。
けれど、まだ駄目だ。
鱗衣をまとい、簡単な任務をこなし、それでもまだ拝領を拒むアイザックに対し、「まあ、答えは焦らずともよい」と訳知り顔で肩を叩いた男の顔を思い出す。
いや、実際は深くかぶった兜のおかげで顔など見えなかったのだが。安心させるような物言いと裏腹にそれが警戒心の強さに思えてどうにもひっかかる。
表情が見えればいいというものでもない。けれど、顔も見せないような人間を言葉だけで信用するのも難しい。
どうしたものか……。
アイザックがふたたび深いため息をついて、変わらぬ輝きを誇るクラーケンを撫でる。その時だった。
「!!」
ズドン、と雷に撃たれたような衝撃に、アイザックは知らず大理石の床へ膝をついていた。
「い、今のは一体……」
混乱収まらぬまま宙を見上げる。指先から駆けぬけた小宇宙の奔流は一瞬だったが、激しい余韻がビリビリと肌を粟だたせていた。
北氷洋を守護する鱗衣に触れていたからか、はたまたアイザックがその小宇宙をよくよく知っていたからか。ともかく北氷洋で膨れ上がった強大な小宇宙を今感知した。
永久凍土のような雄大さと、けぶる雪のように美しい輝きをあわせ持つ小宇宙。
―――師、カミュの小宇宙。
間違うはずはない。しかし、与えられた情報によれば今はギリシャの聖域に戻っているはずのカミュの小宇宙がなぜ。シベリアの修行地に戻った? それは何のために?
一体、北氷洋でなにが起こっているというのか。
戸惑いながらも立ち上がり、アイザックはふたたびクラーケンの鱗衣に触れた。
「手を、貸してくれるか?」
物言わぬ鱗衣はしかし、喜々と黄金に輝いた。