さよならを風に唄う/沓沢藍緋


もう二度と、会うこともないだろうと思っていたのだ。

冥界とは、死者が辿り着く場所だという。遠い日の伝聞を現実として実感するなんてことになろうとは、カノン自身想像もしていなかった。ここに至るまでに目にした光景には、幾人もの死者が連なっていたのだから、その事実は疑うべくもない。
そのような『可能性』を考えていなかったといったら嘘になる。けれど、それでもよもやこんなことが本当に起きるなどとは思ってもみなかったのだ。
三途の川を越えた先、生前に犯した罪を裁くという第一獄で出会った青銅聖闘士たちを叱咤の挙げ句先へと行かせ、黒き疾風の谷で立ちはだかった冥闘士を蹴散らした、その矢先。
先へと進むために前へと向き直ったカノンの視界に入ったのは、あまりにも見覚えのありすぎる、自分よりも一回り小さな少年の姿だった。歩み出そうとしていたはずの身体がかちりと動きを止める。呼吸すら、忘れてしまいそうだった。
「……っ」
驚きのあまり発しようとした声は掠れ、不格好な吐息となって口から漏れた。たった今のことだ、いまだ未熟な青銅聖闘士たちへ、どの面下げて説教したというのか。これではあまりにも情けない。その身に纏った黄金聖衣に不釣り合いなていたらくに、自分ですら失望してしまいそうだった。
荒涼とした殺風景の中、少年はTシャツに細身のボトムという見覚えのある姿で立ち尽くしていた。彼はひとつきりの目をただこちらへと見据えるだけで、何ひとつ言葉を紡ごうとはしなかった。腕や脚を、動かすこともしない。
ただ、じっとそこにあるだけ。もしかして、これは自分に都合のいい――といってしまうにはいろいろと複雑な思いもあるのだが――妄想なのではないか、その考えに至って、カノンは驚きのあまり見開いたままだった目を二度、三度と瞬いた。だけどそんなことで目の前の姿が掻き消えてくれるはずもなく、少年は相も変わらず無愛想ともいえる無表情を貼りつけてこちらを見つめたままだ。
呆れたようにも見えるその顔は、確かによく知るものだ。彼が――生前にしばしばこちらへと向けていたもの。
まさか、本当に――? ようやっと至ったその想いで、カノンは震える声を紡いだ。
「……アイザック……?」
恐る恐る絞り出した呼びかけは、笑えるほどに弱々しいものになった。まるで機械仕掛けのように、少年がゆっくりと瞬く。その顔に感情は見えない。やっと――静かな声がそう応えた。
「やっと、呼んでくれたな。よもや忘れられているかと思ったぞ」
「……まさか……ついこの間まで、呼んでいた、ものを……どうして、名を」
「どうしてもこうしても。こちらを認識して呼びかけてもらわないと、自分からは話しかけられないシステムらしい。面倒なものだな」
幽霊なんてものは、相手が気づいていようといまいと、自分から好き勝手に怨念を振りまくことができるものだと思っていた。冗談とも本気ともとれるそんなことを言って、アイザック――そう呼ばれた少年が息をついた。
少年のことを、カノンはよく知っていた。いや、『よく』というのは語弊があるかもしれない。カノンがアイザックと出会ったのは、今からほんの一年とちょっと前だ。僅か一年の時間の流れなんて、カノンの二十八年の人生からすれば、短いと言わざるを得ない。
それでも、『よく』知っていたと表現してしまうのは、そのほんの僅かな時間に、それまで頑なに世界へと隠し続けていた大きな秘密を共有してしまった共犯者だからだろうか。
自分を切り離した兄へ、そして世界へと復讐を誓いながら海底で過ごした日々――嘘で塗り固められたようなカノンの十三年間において、たった一人だけ。唯一、真実を伝えてしまった相手が目の前にいる。海将軍クラーケンのアイザック――カノンが欺いて利用して裏切って、そして海に散った『彼ら』の、一人。
今更ながら、ここは冥界なのだと痛いほどに実感されて息が詰まる。自分が殺したも同然の誰かに、化けて出られる可能性を考えなかったわけではない。面と向かって詰られようと、怒りにまかせて命をとられようと文句が言える立場ではないことなど、十分にわかりすぎているのだ。だがカノンはまた、それがありえない妄想に過ぎないこともわかっていた。何故ならあの海の面々は知らないのだ――カノンが皆を、海皇までをも欺こうとしていたことを。皆なにも知らずに海へと散り、死んでいった。だからこそ、カノンの罪は重い。彼らはきっと、大望が果たされなかった無念を抱きこそすれ、恨みを募らせ果たすことなど考えてもいまい――ただ、一人を除いては。
「……現れるなら、お前だろうとは思っていた」
静かに告げた声はやはり掠れていた。それが失望を表してのことなのか、諦念を表してのことなのか、それとも純粋な驚愕ゆえなのか、それすらも自分ではわからない。